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映画『ミゼリコルディア』の概要
原題:『Misericordia』 製作年:2024 国:フランス 上映:103分 日本語字幕:手束紀子 配給:サニーフィルム
2024年カンヌ国際映画祭プレミア部門 正式出品 2024年ルイ・デリュック賞 2025年セザール賞8部門ノミネート
映画『ミゼリコルディア』のあらすじ
秋、紅葉が美しく、石造りの家が建ち並ぶ村。ジェレミーは、かつて働いていたパン屋の店主の葬儀に参列するため帰郷する。男の未亡人マルティーヌの勧めで家に一泊だけすることになるが、思いのほか長引く滞在。そんな中、起きた謎の失踪事件。未亡人の息子ヴァンサン、音信不通となっていたかつての親友ワルター、奇妙な神父フィリップ、そして、村の秘密を知っている警官。村に立ち込めるそれぞれの思惑と欲望。
劇場用公式プログラム『Alain Guiraudie』より
映画『ミゼリコルディア』のキャスト
ジェレミー … フェリックス・キシル 『グッバイ、ゴダール!』
マルティーヌ … カトリーヌ・フロ 『大統領の料理人』
ヴァンサン … ジャン=バティスト・デュラン
神父フィリップ … ジャック・ドゥヴレイ
ワルター … デヴィッド・アヤラ
映画『ミゼリコルディア』の上映館・配信情報
『ミゼリコルディア』は“アラン・ギロディ監督特集”として、『ノーバディーズ・ヒーロー』『湖の見知らぬ男』とともに、今年3月22日より渋谷シアター・イメージフォーラムにて日本初公開されました。そのほかの劇場公開予定については、オフィシャルサイトをご確認ください。
サブスクリプションによる配信予定は、4月7日時点で発表されていません。
映画『ミゼリコルディア』の感想(ネタバレなし)
監督の作品を鑑賞したのは今回が初ですが、3つの特徴を感じました。
- 自然を意識したカメラワーク
- シュールで淡々とした人間ドラマ
- 大胆な性描写
カメラワークは冒頭から印象的。ジェレミーの車が森を抜け、村に入っていく様子を長回しのカットで映し、自然に囲まれた物語舞台の空気を肌で感じることができます。
森のシーンが要所要所でありますが、昼、夜、雨時と、さまざまな顔を見せる森の描写は、映像を通して物語と自然が対話をしているような印象を受けました。
ストーリーはシリアスながらも、どこか滑稽かつ面白おかしい調子で進んでいきます。主要人物は決して多くはありませんが、複雑な関係が絡み合う様を、説明的な調子にならずに伝える脚本の手腕が見事。淡々とテンポよく進むので、苦手な人が多いであろう性描写についても、特にいやらしさを感じることはありませんでした。
本作は「欲望」がひとつのキーワードになっており、〈欲望の対象(誰に?)〉というキャッチコピーのとおり、“誰に欲望を抱くのか”がストーリーの肝になっています。
その点、主人公のジェレミーは感情が読みづらい人物です。亡くなった店主に想いを寄せていたと匂わせる描写もあれば、旧友のワルターを誘惑したり、マルティーヌに思わせぶりな態度をとって息子のヴァンサンに疑われたりして、誰に欲望を抱いているのかもわかりにくいのです。
こうした、観客と心理的距離のある人物を主役に置くことによって、“異物”を取り入れた狭い村社会が、徐々にカオスへと陥っていく過程に説得力が生じました。複雑ながらも二転三転と結末へ転がっていく軽妙なプロットが、映画の魅力をぐっと引き上げています。
映画『ミゼリコルディア』の感想(ネタバレあり)
※以下の感想はネタバレありです。未鑑賞の方はご注意ください。
映画の中盤、ジェレミーはヴァンサンと、彼の母親・マルティーヌをめぐっての口論の末、殴り合いの喧嘩をし、結果的に彼を殺してしまいます。
死体を森に埋め、隠ぺいするジェレミー。行方不明のヴァンサンをめぐって大さわぎする家族たちをよそに、何事もなかったように過ごしますが、ヴァンサンの車が発見され、疑いは彼に向けられます。
マルティーヌや、アリバイに利用したワルター、警察から追及され、嘘に嘘を重ねていくジェレミー。
そんな中、神父のフィリップは彼に有利な証言で警察を欺きます。そして、教会の告解室で、逆に自分の告解を聞いてほしいとジェレミーに願い出ます。
「ヴァンサンの殺人犯を隠してる」
あたかも別の誰かのことを話すように、ジェレミーに告白する。秘密を抱えたまま生きていくつもりか、恐れはないのか、と問うジェレミーに、神父は「殺人犯に毎日会える」と遠回しに想いを告げる。
この告解室のシーンはとても印象に残りました。
神父の口から語られる献身や愛はエゴによる共犯行為であり、特に心を動かされることはありませんが、このやりとりに見える“秘密を持つことの孤独”というメッセージは、心に刺さるものがあります。
人は大なり小なり、罪や秘密を抱えているもの。罪は人を孤独にしますが、赦しにもまた孤独がつきものなのかもしれません。
後に、ジェレミーの自殺を神父が止めるシーンも同様。罪を暴かれなくとも、罪悪感に耐え切れないと話すジェレミーに、この世に生きる者は皆、消極的であっても殺戮に加担していると語る神父。
ありがちな詭弁な気もしますが、これが真理でないと言い切ることもできません。どこかで救われたような気がしてしまったのも事実です。大人になると無性に赦してもらいたい……
と、こう書いていると壮大でかなりシリアスな内容に感じますが、この映画自体は淡々としたコメディ調で進んでいきます。献身と赦しを語った神父が、欲望にいきり立つアレを披露してしまうシーンなんかは顕著です。
最終的になんやかんやで警察の手を逃れたジェレミーは、マルティーヌの家に戻り、同じベッドで眠り映画は終了。
この結末から察するに、始めからジェレミーの欲望の対象はマルティーヌで、右往左往しながら彼女の元へ戻るまでの物語というのが『ミゼリコルディア』という作品だったのでしょうか。
教会的な意味合いで考察すると、父性的なものへの傾倒の末、母性へと立ち返るまでの物語、といった感じかもしれません。
さて、背伸びした感想はここまでとして、全体的にはテーマ性を押し出しすぎることなく、映像美やコントのような脚本が魅力で、映画ファンなら一度は観て損はない作品でした。